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Vol.2  ヤナーチェクの生涯
(2011,6,26 第四回演奏会 パンフレットより)
モラヴィアの「ヤナチェク」
 レオシュ・ヤナーチェク(1854〜1928年)の作品を語る上で生まれ故郷であるモラヴィアは
非常に大きく関係している。モラヴィアとはチェコの南で、ウィーンまで100キロ程の距離に
あるブルノを中心とする地方である。レオシュ・ヤナーチェクは北モラヴィアに位置する
フクヴァルディに1854年に生まれた。フクヴァルディはその中でもラシュコ地方に属する
ポーランドにも近い場所である。
 レオシュの父、イジー・ヤナーチェクは教育者、音楽家として各地を転々としながらも
合唱指揮、教会でのオルガン演奏をして生計を立てていた。レオシュはドイツが入植地として
建設したフクヴァルディに生まれ、幼い頃から父から音楽教育を受けていたのだが、
病魔に蝕まれていくイジーに代わり収入を得る教育を受けるために、9歳にして母親と
モラヴィアの首都ブルノに出ることになる。レオシュを見送ったイジーは息子と再会することなく、
7ヶ月後に亡くなった。その後、レオシュは生涯のほとんどをこのブルノで過ごすこととなる。
また、亡くなるまでモラヴィア訛りのチェコ語を話し自身の名前をモラヴィア訛りで
「ヤナチェク」と呼んでいたという。
首都ブルノへ
 9歳のレオシュがやってきたブルノは、中世の町並みを
色濃く残すドイツ人中心の街であった。そのブルノで
アウグスチノ修道院(当時、メンデルがえんどう豆の遺伝子
研究を行っていた)に入り聖歌隊の一員となった。ここで
十分な音楽教育を受け、18歳にしてブルノの聖歌隊の
副指揮者に任命される。ここでは自作の発表の機会も
与えられ、作曲家としての才能を開花していくことになる。
しかし亡き父のように教育者になりたいと考えていた
レオシュは、プラハのオルガン学校に入学し教員の資格を
取ることになったのだが、貧乏であったレオシュはピアノを
借りるお金もなく机にチョークで鍵盤を書いて練習をして
いた。このころからドヴォジャークと親交を深め教会音楽、民謡の歌詞による「13曲のモラヴィア2重唱曲」など
モラヴィア題材とする曲を作曲するようになる。
 当時のプラハは、ドヴォジャークやスメタナがチェコ民俗
音楽の熱心な伝道となり、プラハ国民劇場のこけら落としで
スメタナの愛国的な歌劇「リブシェ」が上演されるなど、
チェコ語の歌劇が盛んに作曲されていた。もちろん
ヤナーチェクもその仲間入りを目指したのだが、
認められずブルノに戻る事になる。


作曲家への道は険しい
 ブルノに戻ったヤナーチェクは、合唱指揮者として活動を広げ、先輩である
ドヴォジャークなどの作品を指揮していたが、留学したいとの思いがつのり
ライプチヒ、ブラームスやワーグナーが活動するウィーンで作曲を学ぶが、
作品は評価されずブルノに戻りまた合唱指揮者として活動を広げていった。
そして1882年にはブルノに開校したオルガン学校(現在は、ヤナーチェク記念館
となっている)の教師に任命された。これが現在のヤナーチェク音楽院として発展
していく基礎となる。
 一方、指揮者としてドヴォジャークの「スターバト・マーテル」「幽霊の花嫁」など
大規模な合唱付きの作品を取り上げ、指揮者として高い評価を得ることになる
のだが、作曲家として歌劇「シャルカ」(現在でもほとんど演奏されない)などを
作曲し意欲はあるものの、高い評価を得るには至らなかった。またピアニストと
しても腕を振るい、アントン・ルビンシュタイン、サン=サーンスの協奏曲などを演奏した。

モラヴィアの民俗学者との出会い
 チェコの民族的な作曲家になりたいというヤナーチェクの思いは、モラヴィアの
民俗学者であるフランチシェク・バルトシュに出会い少しずつ形となりはじめた。
バルトシュはヤナーチェクと共に列車はおろか馬車で入っていく事すら困難な
モラヴィアの村々、国境付近の山間の僻地を回り、モラヴィアの民俗音楽を
採譜し熱心に記録した。この経験が、後に民族的な色彩の濃い作品を
生み出すこととなる。

四十にして惑はず・・・
ヤナーチェク像
 40歳にしてようやく代表作であり出世作となる歌劇
「イェヌーファ」の作曲に着手。しかし教員として多忙な
生活、娘オルガの死などにより完成までおよそ10年も
費やしたのだが、問題を抱えながらも1904年の初演は
大成功を収めた。しかしプラハでの上演には実現せず、
当時ウィーン国立歌劇場の音楽監督をしていたボヘミア
生まれの作曲家で指揮者のグスタフ・マーラーにその
上演を依頼したのだが、これも実現しなかった。更に
同時期に作曲を進めていた歌劇「運命」は生前演奏
される事無く、初演は1978年まで待つしかなかった。
 とは言え歌劇「イェヌーファ」の成功は、作曲家としての
自信をヤナーチェクに与え、「草かげの小径にて」、
ピアノソナタ「1905年10月1日」などのピアノ作品の
名作を少しずつではあるが世に送り出した。

六十にして耳順ふ・・・
 60歳近くになったヤナーチェクは、歌劇「プロウチェク氏の旅行」
「カーチャ・カヴァノヴァー」とチェコ語によるオペラの作品に力を注ぎ
評価を高めた。そして第1次大戦中に作曲した狂詩曲
「タラス・ブーリバ」は1921年のブルの初演、1924年に
ヴァーツラフ・ターリヒ指揮チェコ・フィルのプラハ初演ともに大成功を
収める事になるのだが、すでにヤナーチェクは70歳になろうとして
いたのだ。さらには歌劇「利口な女狐」「マクロプロス事件」
「死者の家」といった名曲を世に送り出し、今日のオペラ作曲家として
確固たる地位を築くことになる。また2曲の弦楽四重奏を
作曲したのもこの頃である。

七十と二にして心の欲するところに従へ・・・
 そして遅咲きのヤナーチェクが最も有名な「シンフォニエッタ」を
作曲したのは1926年で72歳になってからだ。(この年には
「シンフォニエッタ」と並んで古スラブ語の典礼による「グラゴル・ミサ」も
発表している)72歳の老巨匠が書いたとは思えないほどの
生命力に満ちた「シンフォニエッタ」は生涯のほとんどを過ごした
ブルノ賛歌であり、モラヴィアを愛したヤナーチェクならでは民族色の
濃い強烈なインパクトを与える作品となった。


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